1960(S35)〜1965(S40)年 中高生の頃、破天荒を好む

小学生の頃から破天荒を好んでいた。(破天荒とは前人のなしえなかったことを初めてすること)
好奇心は強かったが、やりたいことだけをやるタイプだった。
だから、生意気で大人の言うことを聞かなかったので嫌われるタイプだった。
勉強は中1の中頃まで全くやる気がなかったが、数学がきっかけで、1年の終わり頃になって面白さが分かってきた。
月に1回、テアトル徳山に映画を観に行って、中華そばを食べて帰るのが楽しみだった。(テアトルとはフランス語で劇場Theater)

   ーーー中学生のころーーー

数学の授業で
クラスの全員が分からなかった因数分解に於ける簡易的解答の方法論を答えて褒められたことを覚えている。

幾何の証明で
正解できたものから帰宅していいと先生が言ったときに限って最初に帰ったことが何度かある。

中1の理科の授業で
柱時計の振り子の部分は何でできているか?
と先生が質問した。が、クラスの誰も答えないので、自分が「竹」と答えた。
如何して竹なんだと先生、
「だって、物差し、定規、は竹でできていて伸び縮みが少ない」と答えた。
(生意気で、成績は悪いが雑学だけは、と言うような顔を先生がしたのを見逃さなかった)

質問用紙に
中学1年だと思う。ある日、試験とは関係なしに、クラスだけなのか学年全員が対象なのか分からないが、
10項ぐらいの質問用紙が配られた。
今でもはっきり覚えている項目がある
「性」と、「ハードウェア、ソフトウェア」で、後者は全く分からなかった。

振り返って思えば、
1961(S36)年の頃、アメリカではComputerとSoftwareが次世代を担う産業と位置づけられ、
その主役が、Softwareと言う言葉で、日本にも浸透してきていたのだろう。
云いたいことは、
日本はこの後、アメリカ製品の物真似で、物作りが上手いと自慢し得意満面になって、それ一筋に突き進んでいくが、
一方のアメリカは物作りで競争するのではなく、ソフトエア&情報化に重点を置いた政策を採ったということである。
半世紀後の今、日本は物作りを韓国、台湾、中国へと奪われ、次の産業を見出せないまま右往左往し、今も後追いを続けている。
アメリカはComputerを利用したSoftwareとInformationで世界を牛耳っている。

中2の理科の授業で
先生が質問した。「白骨化した死体が発見された。男か女かは如何して見分けるか?
クラスの誰も答えないので、「骨盤」もしくは「尻の骨」と答えた。
更に先生が追求した。
どのように違うのか? 「女は大きく広がっている」と答える。
じゃあ何故そのように?
素直に「子供を生むから股の部分が開いている」と答えた。
クラスの女子達が嫌らしいと言うような顔で自分を見ていた。

授業中も先生の話が面白い場合はクラスを無視して先生と問答をしていた。(この頃から、殻を抜け出て自分をさらけ出し始めた)


♂♀余談 男女が交わっている写真

小学校5年の頃、正常位で男女が交わっている写真を見た。
それ以来、賢ぶっていた女子や、鼻に付く女子、高慢な女子を見る目に、不思議と余裕が出てきた。

同じようなことが、
30歳代の頃、司馬遼太郎先生の本を読んでいて凄いことが書かれていた。
坂本竜馬は幕末の頃、維新のために、多くのリーダー、高官たちと会談をしている。
土佐藩脱藩の下級武士である竜馬に「高官らと臆せずよく会談できますね」と志士の誰かが問うたところ、
竜馬は「女と交わっている様は一緒ぜよ」と答えたという文献が残っていると
(上記の竜馬の言葉はハッキリ覚えてないので近い内容で私が適当に書いた)
龍馬とすれば、志よりも上下関係を気にする程度の同志だったので、そう答えたたのかもしれない。
が、司馬先生も、時代を変えてしまうほどの男の器というか発想が竜馬らしいと、思ったに違いない。
私も龍馬に同感したので、自分の人生の中で、お偉方と接する時、大いに利用させてもらった。