ページ 1 2 3  

■横山大観展(4/6 松坂屋美術館)
いやはや同じ人間でありながら、この構図と色彩の表現力を眺めていると、凡庸なサリエリの気持ちが分からないでもないような気がします。普通は見落としてしまう細かな部分まで、まったくの妥協がどこにも見あたらず、手を抜かず気が遠くなるような根気と精神力が織り成す日本画を岡倉天心が理想とした東洋美術の近代化の担い手として審美の世界を創造した巨匠だと感じました。
■インダス文明展(1/26 名古屋市博物館)
4500年前の人々が作った遺物を見終わって感じたことは、「当時から人間そんなに進歩していないな」ということでした。同時に、人類文明の発達の中で一番の発見は電気だなとも感じました。
人間は、道具を作り利用する知恵を持ち、手先が器用であることが幸いであったような気がする。
やはり、未知のものへの好奇心と挑戦する勇気があったからでしょう。
21世紀になっても忘れてはならないことのような気がします。
■ANDY WARHOL アンディ・ウォーホル展(12/12)
人々がよく目にするものを絵画として表現した。所謂、ポップ・アート(大衆芸術)の代表者で、いろいろな側面で物事を考えた、ちょっとひねくれ者と言うか、そんな人のような気がする。多角的に創造し影響を与え、それを受け入れ楽しんだところはアメリカらしい。
■ 2000年の秋に思う
我々は、戦後、豊かさを求めて懸命に生きてきました。しかし、忘れ物もたくさんしてきたのではないでしょうか。その結果がこの世紀末にでてきている。
社会の中での不祥事やマイナスな面がたくさん見えてくるようになってきました。しかしながら、それを正す正さねばならないと思う人々も同様に出てきています。なぜなら、問題が発覚するということは誰かが正しているからです。
マイナス面が伸びればプラス面も伸びている。 様々な人間社会の仕組みの中で格差がどんどん広がり、振り子が左右に大きく振れるような社会になっていくような気がします。
やはり一人一人がしっかりした考え方を持つしかない時代になったのでしょう。
 
国に依存していた企業が破綻し、大企業や金融に依存していた中小が倒産している。戦後50年続いた右肩上がりを信じ、近いうち必ず景気が回復すると幻想しつづけた。無策経営が膨大な負債を抱えている。国はアメリカから、企業は国から、人は会社から、それぞれが自分のできる範囲で少しずつ自立し、自らの得意分野の中で繋がりを持っていく、そのような時代へと転換していく時期にきているのではないでしょうか。
 
高校や大学を卒業して65歳まで、40数年間も同じ企業の中で働きつづけること自体、不可能な時代になってきたのです。企業の栄枯は20年から30年と言われています。そういうことであれば、人生三足ぐらいの草鞋を履き替えて生きていく、そんな心構えが必要な時代になったような気がします。長くて20年ぐらいのレンジで、新たな分野へ挑戦してみる人生も楽しいものだと考えるような人が増えてくるといいですね。
情を報じる(11/20)
22歳からデジタルの世界に携わってきました。コンピュータからオンライン通信まで、そのコンセプト(Concept)は解っているつもりです。
インターネットが普及することで世界中を瞬時に文字や画像が相互にやり取りできるようになり、互いに知り合った中での連絡や、信頼のおけるデータは大変便利に活用できるようになりました。
しかし、インターネットを通して、いろんなデータ(文字、画像、音など)をデジタル化して伝送できるようになってきたものの、物や心をデジタル化して伝送することはできません。
インターネットでおこなわれていることは Data Communication です。
情報技術 Information Technologyとは、 伝達の手段が変化した二次元までの世界なのだという認識が必要です。

人類数千年の歴史の中で考えると、情報と言うのは「情を報じる」こと。一人一人の感情をきちんとつかんで整理し、伝えていく。そこに心を表現する文化(絵画や演劇や文学や音楽など)が生まれてきた。
デジタルはバーチャルの世界であるため、どうしても行動に欠けてしまうところがあります。言葉や文字や画像でいくら表現したり伝えたりしても、実物を肉眼で観たり、手で触れたり、臭いを嗅ぐことには到底及ぶものではありません。ニューヨークやロンドンを言葉や写真やビデオでいくら表現しても迫力がない、あれです。

デジタル虫になっても、四季折々の自然の中で本物に浸たり、実物を感覚で捉える行動を忘れてはだめです。PCと同じくらい自然と接する時間を持つことでバランスがとれてくるのです。(昼は行動、夜はPCかな)
また、人間同士お互いが会って、同じ環境の空気を吸いながら、肉眼で表情や外見を観て、のどから出る肉声や語彙を聞きながら話し合っていると、自然と人柄が見えてくる。
いわゆる、三次元の現実世界を共有することで、お互いの情が報じられる。
21世紀、個の時代に入っていく中で、相手の顔が見える関係をWWW (World Wide Web)していくことも忘れてはいけないと思っています。
南山育友会秋の講演会 (11/4)
講師 五木寛之 演題  「歓ぶことと悲しむこと」
五木さんの4、5m前の最前列で拝聴させていただきました。
人々が抱える心状を的確に捉え、別な側面から表現することで人々の気持ちを転換させることのできる作家であると強く感じました。同時に、自らも多くの苦悩を体験されたから、人の気持ちを表現できる作家であるとも感じました。謙虚で聡明な紳士でした。
戦後、懸命に生きてきた人々が、阪神大震災以来物質的な豊かさや安全性に対する価値観を失い、オウム真理教の事件以来精神的な問題や人の心に対する信頼感を失いました。更に現在、社会の様々の組織や仕組みの中で起きている事件や不祥事で、人々は社会に対する嫌気や人間社会の中で何を信じていいのか分からなくなって心が乾ききっている。目的が見えず、心が浮いて彷徨をしている。そんな世相に必要な心のあり方を切々と語ってくれました。
五木さんのお陰で心爽やかになった秋の午後でした。
中根 寛(画業50年展)10/25
中腹の山から眺めたような風景画である。晴天の空が遠くまで眺望でき所々に雲が漂っている。下界に広がる平野を悠々と河川が海へと流れ、周囲の山には緑の草木で覆われている、明るく穏やかな風景が、きめ細かいタッチで描写されている。画家の人柄が表現されているような風景でした。
須田剋太展(生命の根源を求めて)10/16
筆を荒々しく左右上下に活きよい良く力をこめて描いた痕がある。生きている事の証や煩悩が滲み出ている。やはり、追い求めていたのかもしれない。この画家から連想することは司馬遼太郎の「街道を行く」の挿絵を描いた人だということがどうしても直ぐに浮かんでくる。本人も「司馬さんのお陰で世に出ることができた」ということを述べている。葛藤と実直に向き合って生きた画家であったような気がした。

ページ 1 2 3