1969(S44)年2月、一人で沖縄へ

まだアメリカの統治下にあった沖縄へ行った。
これが日本を出た、海外旅行の最初である。
ベトナム戦争の真っ只中、アメリカの大国らしさを肌で感じた。
カメラを持っていなかったので写真はない。

ヒッピーに影響されたような反戦学生運動もあって過敏になっている頃だった。
数カ月前に申請し殆ど諦めていたビザが急遽発給されたので、アメリカ統治下の沖縄へ行くことができた。
西鹿児島駅までは学割を利用して夜行列車で行った。
鹿児島港からは琉球海運RKK LINEで那覇まで行く
出航の日時など、どの様に情報を得たのか全く記憶がない。
船底の三等船室は通路より一段高い枡席みたいなものが幾つも用意されていて居るだけだった。謂わば枡の中で数十人が雑魚寝する様にできていた。自分の寝場所を確保し出航までの間ゴロゴロしていた。
近くの枡席には何処かの大学の学生運動の連中が15名位いた、容姿端麗、頭脳明晰で若いころの北大路欣也のようなリーダーらしき男の側には、可愛くて聡明そうな女学生がいつもいた(明らかにできている感じが態度に出ていた)。就職先も決まって4月からは社会人になるので、学生とはお別れだという気持ちがあり、もう学生との関わりを持ちたくなかった。今回の旅行の服装も社会人風にしていた。
船内のベンダーVendorで初めてドルを使ってコカ・コーラを買った。10セント(36円)だった。夕飯は船内でカレーライスが用意されていて、それを食べた。

錦江湾を出てから南シナ海に入ると物凄くひどい嵐で船は上下左右に揺れ、トイレに行くために通路を歩いている人が何人も升席に倒れこんできた。和式便器の水が足元にまで溢れ出てくるほど傾いて立ちションができなかった。
洗面器が用意されていた、それにカレーを全て吐き出したが、それでも収まらず胃液が奥から何度も出た。洗面器を抱えたまま殆んど寝れず朝が来た。
隣にいるはずの学生らしい男は一度も帰って来なかったので尋ねたら、一晩中甲板の方に居たと言っていた。眉毛に塩が付いていた。帰りは飛行機にするとも言っていた。自分はカネもないので・・・。

沖縄の主だった所を観光(首里城やビーチなどなど)したが、はっきりした記憶が無い、きっと印象が薄かったのだろう。
しかし今でも、その情景が見える出来事がある 嘉手納基地画像Google
バスに乗っていて嘉手納基地近くを通過している時、たまたま踏切で停止させられるような形で止められた。
薄茶色の軍服を着たアメリカ兵数人がライフル銃を胸の前で右下左上(ギターを弾くような格好)に構えてバスの方をじっと監視していた。
何故、市バスを止めたのか?
鉄条網が張られている左側の基地から、大型の輸送用トレーラー現れた。荷台はフラットになっていて囲いなどもなく丸見えである。そこに空爆用の黒い爆弾(大きなイルカの死体が並べられているかのようなイメージ)が10本ぐらい並べられ、右の基地へ運送されていった。
福岡の板付基地にアメリカ人の知人がいたので何度も行ったが、日本では見られない異様な光景だった。
(余談:下宿でFENを分からまま聞いていた のを思い出した)

10km位遠くの空にはベトナムから帰還してきたとみられる十数機の黒い空爆機ボーイングB52が、一列に編隊を組んで大きく旋回しながら順次嘉手納基地へ舞い降りている様子が見えた。
ハゲタカを彷彿とさせる巨大な戦略爆撃機B52、空爆用の物凄くでかい爆弾、ライフル銃を構えている兵士など、戦時の後方部隊のロジスティクスlogisticsの光景だった。B52画像Google

もう一つ鮮明に覚えていることが
市内には、アメリカ人が乗っている車がたくさん走っていた。
バスの左車窓から外を眺めていると、対向車線の前方からホンダのS800オープンカーが走ってきた。
助手席にイングリッド・バーグマン(映画「 カサブランカ、誰がために鐘はなる」)のような女性を乗せ、実にアメリカらしく自由で開放的な光景だった。
ベトナム戦争真っ只中とは言え、アメリカ人は陽気で明るく人生を楽しんでいるように見えた。
基地の軍備や市内の様子を見ても、必死になっているような悲壮感はなくアメリカが持つ余裕というか大らかさみたいなものを感じた。
何でこんなアメリカと日本は戦争をしたのかとも思った。
無知の愚かさというか? 思想の怖さというか? 群集心理というか? ・・・・・

ひめゆりの塔、その周辺の岩崖にも行った。
太平洋からはたくさんの軍艦が押寄せ砲撃を繰り返す。空母から飛び立った戦闘機が空爆や機銃掃射を繰り返す。
アメリカ兵がどんどん上陸し押し寄せてくるが、抵抗するための武器や弾薬もなくなり逃げ場もない。
「捕虜になるくらいなら死ね」と言われていた沖縄人にとっての恐怖心は計り知れないと思った。
東京の大本営の中にいるだけの連中には分からいだろう。
「お国のために死ね」と言うような国家は滅亡すればいい、
「お国のために生き抜け」と言うのが武士の国家ではなかったのか?(明治維新後とは何だったのか?)
周辺には各県の慰霊碑が点在していたが、白々しく思えた。

いずれにしても、
アメリカ統治下の沖縄、ベトナム戦時下の嘉手納基地周辺、軍に所属して生きるアメリカ兵とその家族、沖縄に生きる人達など、
人それぞれの生き方があり、皆んなが平和で平等に生きることの難しさも感じた。

帰りの船がどうだったかの記憶は全くない。