1967(S42)年夏、一人で自転車で九州を一周した

ただ、今となっては記憶だけしか残っていませんが、私にとって本当に忘れられない素晴らしい出来事でしたので、ここに残しておきたくて書いています。
鹿児島を目指す(妹の通学用自転車で)
昭和42年の夏の事でした。山口から九州、福岡市に入り佐賀県の唐津市、伊万里市、大村市、諫早市、小浜町から雲仙を超えて島原からフェリーに乗船し三角に渡りました。
雲仙道路R57の山越えまでは殆ど歩きで本当に疲れました、島原までの下りは快適でしたが。苦あれば楽あり)
三角からポンポン船のような小さな船で八代まで渡り、八代から水俣市、出水市、阿久根市、川内市を南下し串木野市から鹿児島市内へ入りました。

ツーリングの途中で思い出したことある
大学の生理学の教授が言っていたことを、
「東京オリンピックの男子マラソンで2連覇したアベベが給水所で飲んでいた水を分析したらスイカの汁だった」と
それまではコーラやファンタを飲んでいたが直ぐに喉が渇いて何本も飲んでいたが、
午前にスイカを1/8位食べると一日中喉が渇かなくなった。

桜島
かすかに噴煙を噴き出している桜島が国道3号線から見えたときは、本当に嬉しかった。
ここまでは、お寺、学校、公民館に泊めて貰いながらでした。若さと言うか九州人の寛容さというか良き時代というか、そんな穏やかな背景があったからこそ、できたことだと思っています。
パンク:川内でタイヤのパンクがあった、国道R3沿いの民家でバケツと水を用意してもらって修理する。終わって出発しようとすると、大根の漬物に砂糖を上からかけて出してくれた。きっと疲れた顔をしていたので、塩と砂糖が疲労回復には一番いいと思ってのことだろう。美味しそうに食べたのを見てか2杯目も左手の上に乗せてくれたが、さすがに食べるのに苦しかった。親心のような気持ちだと思い必死で飲み込んだことを今も覚えている。初老の田舎の夫婦であった。鹿児島弁で聞き取れないところもあった)
鹿児島では友人の家に転がり込んで何日か住人になっていました。

指宿:YTと指宿までバスで行った。進む方向は違っていたが、今が大切で青春そのものであった。
   ◆空に星があるように 荒木一郎 作詞作曲 YouTube
空に星が あるように
浜辺に砂が あるように
ボクの心に たった一つの
小さな夢が ありました
風が東に 吹くように
川が流れて 行くように
時の流れに たった一つの
小さな夢は 消えました
淋しく 淋しく 星を見つめ
ひとりで ひとりで 涙にぬれる
何もかも すべては
終ってしまったけれど
何もかも まわりは
変わってしまったけれど
春に小雨が 降るように
秋に枯葉が 散るように
それは誰にも あるような
ただの季節の かわりめの頃

宮崎から大分を目指す
市内から桜島にフェリーで渡り、鹿屋市から串間市、日南市、宮崎市、日向市、延岡市、佐伯市、臼杵市、大分市へ入りました。
温かい味噌汁:串間では朝から大雨でした。少し走ったところで、朝食のため道沿いの小さな雑貨店でパンを買って店の中で立って食べていると、手足が不自由な私と同じくらいの年頃の女の子が温かい味噌汁を、こぼしそうになりながら運んできてくれた。親に言われてか彼女の意志かは分からないが、奥で食べていた朝食の味噌汁を私に分けしてくれたに違いないと思いました。私にとって、この味噌汁と少女のこと、そして、この店の情け深い親切が今も脳裏に焼きついていて生涯忘れることができません)

日南海岸では台風に遭遇しました。自動車も人影もなく押し寄せる大波と強風の中をただ一人自転車を押して北上しました。
ただ不思議な事に、このような状況でも心は冷静沈着で、寂しいとか憂うとかもなく倒れそうになりながらも自転車を押して前に歩いて進んでいました。
この間も公民館、学校、友人宅を宿にして、気分爽快に自転車を漕いでいました。

阿蘇を東西に走る「やまなみハイウェー

大分市から熊本まではやまなみハイウェーを走りました。竹田市から阿蘇市、熊本市、八女市、久留米市、鳥栖市、筑紫野市、福岡市に入りました。(別府から阿蘇までは登山のように苦しかった。バイクの後ろに乗った女の子が振り返って手を振ったことを覚えている)
阿蘇だけは大学の保養施設があったので、そこにお金を出して宿泊しました。それ以外は友人の家に転がり込んで泊めてもらいました。

今になって思えば、厚顔にもよくこんな真似をしたなと恥ずかしいような気がしますが、学生というような身分を受けいててくれる世間があったことと、九州という人柄、そして学生時代の友人達がいたからできたことだと感謝しています。
渡る世間に鬼はなし、という言葉通りの旅でした。
自分が一番得た自信は体力でした。
暑い夏の約30日の自転車旅行でしたが、大学時代に於いて一番勉強になったことでした。
(息子や娘たちが学生の頃、友人達を家によく連れて来ました、その時は温かい味噌汁を思い出し、いつも歓迎してやりました)